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134月 2023

ゆるい読書会:石牟礼道子「神々の村」を読む

3月11日にゆるい読書会@とっとりで、石牟礼道子の「神々の村」を読みました。

「神々の村」は、小説家・詩人・環境運動家であった石牟礼道子がライフワークとして、水俣病に苦しむ人々を描いた三部作『苦海浄土』の第二部です。

参加してくれた学生さんの感想を紹介します。

 

 

 

石牟礼道子著の『苦海浄土』第二部、神々の村を読んだ感想会を行った。

 

水俣病の公害問題を扱った作品であり、当時の水俣の人たちの生活様式と公害訴訟に関する流れが書かれている。

 

読み始めて最初の感想は、読みづらいというものであった。これは水俣の人々の生活や水俣病の描写が水俣の方言で描写されていたからである。対して、国から契約書を渡されたときやチッソの株主総会に参加したときのことは現代的な言葉遣いで表されている。話の多くは地元民の語りであり、著者の石牟礼道子はまるで死者と生者の間のイタコのような存在であった。方言を多用することで水俣の風俗を感じさせるのに加え、言葉によって人々に分断が起きていたということを伝えてくるようにも思える。水俣病患者、労働組合、チッソの上層部や国の官僚などでは用いている言葉が違い、それが思想の違いである。

 

公害問題は小学生のころから社会科の勉強で触れてきた。しかし、自分の浅い知識では公害問題は病気になった大多数の一般市民と企業の対立構造しか知らなかった。私は水俣病を水俣市民全体の病気だと思っていた。企業が排出する毒によって病気が起こるのであれば、毒は人を選ばないのだから市民全体が公害の被害者だと思った。故に市民は一致団結して企業と国を訴えたのだと思っていたのだ。しかし、実態は違った。事態はそれよりももっと複雑で、なにより、患者さんの立場はとても悲惨だった。

 

水俣の漁村に住む人の貧困によって、食べるものが制限されていたという事情もあったのだと思う。

 

また、患者さんに対する差別がある。水俣病の原因企業であるチッソは水俣市の根幹であった。チッソがあるから、水俣市には特急が止まる。特急があるということは田舎ではないということ。水俣市はチッソによって大きな恩恵を受けていた。それゆえ、水俣市民たちは、チッソに対して多額の賠償金を要求する公害患者たちを悪として差別してきた。また、ここには部落差別や教育の格差などもあっただろう。チッソの社員は「会社ゆき」と呼ばれ、市民からは立派な存在とされてきた。対して、患者たちは学のない漁村の者であり、貧乏であったから、「腐った魚を食べて病気になった」だとか、「近親婚を続けた結果奇病になったのを、チッソのせいにしているのだ」などと言って差別していた。また、同じ村の中でも、おかみに逆らうなという、悪く言えば田舎根性があり、身内からも非難された。

 

また、患者たちには弁護団の助けがあったとはいえ、法律にのっとって戦う以上、公害患者の人たちは分が悪かった。国の官僚があの手この手で分断を図ったり、責任逃れをしようとしたりしたからだ。

 

公害患者たちにとって、国というものは正義の存在であり、時代劇のようにお奉行が悪者をびしっと成敗してくれるものだと考えていたが、現実では、国はチッソの味方であった。チッソの資本が重要であったからだ。

 

チッソが公害訴訟に向かうときの気持ちはどのようなものだったか。

 

自分は認めたくないという気持ちが大きかったのだと思っている。日本を支える大企業という自負もあっただろうし、何より、自分たちのせいで多くの人が病気になったのだという悪のレッテルを貼られるのは耐え難いだろう。もちろん賠償金を払いたくない気持ちや、会社を守ろうという気持ちもあっただろう。しかし、大きいのは悪者扱いされたくないという思いだろう。

 

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