大山町人権交流センターの広報誌に記事が掲載されました!
先日発行された大山町人権交流センターの広報誌に紀行文が掲載されました。
以下が本文です。
「コロナ禍における地域医療」
新型コロナウイルスが人類にもたらした最も大きな問いは、「果たして人は人と触れ合わずに生きていくことができるのか?」であるように思う。
この数十年の間に先進的な技術が次々と開発され、工場は機械化され、駅や高速道路から切符売りの人がいなくなった。どんどん便利になる現代社会において医療も例外ではなく、昨今ではAI(人工知能)が医師に取って代わるのではないかと言われていた、そんな矢先の新型コロナウイルスの流行だった。
新型コロナウイルス感染症は、現代社会のある種の脆さも明らかにした。それは人類が不合理な状況に脆弱な存在であるということだ。“コロナ”を理由にあらゆる集会や人と人の交流が中止され、文化や暮らしの営みがあっという間に侵害された。
透明な薄いフィルター越しの会話や距離を取った診察で失われるものは一体何なのだろうか?
今、コロナ禍の社会変化を見るにつけ思うのは、必要なケアはそれを必要とする人には見えるけれど、必要としない人には目につきづらいということだ。
診療所にやってくる患者さんは多かれ少なかれ困っていることが多い。ケアを必要としている患者に対し、手で触れること、“手当て”のもつ意味は大きい。膝が痛い、腰が痛いという患者の患部を触る医者は意外と少ない。触らなくても検査すればいいのかもしれないし、出す薬は結局同じかもしれない。しかしそれを必要とする人には手当ての意味があるように思う。
“困っていない人”は医者と患者の間に透明な板で境界線を作ることに躊躇いがない。必要な場面でのテクノロジーの活用や適切な感染管理が重要であることは言うまでもない。しかし、手当てが不要だというのは言い過ぎではないだろうか。
総合診療医の世界には有名なInverse care law(逆さまケアの法則)というものがある。社会的弱者にいざ必要なケアを届けようとすると、そこまで必要としてない人には案外早く届くのに、本当にケアが必要な人にはなかなか届かないということだ。コロナ禍において様々な給付や補助などがあったが、市井の医者として感じるのは、本当に困窮している人々には情報が届きにくくてサービスを受けるのにも障壁が大きい。そしてそれらの人々は“コロナ以前”から困窮していることが多かったし、“コロナ以後”にはますます格差が大きくなった。
新型コロナウイルスの流行に伴い再び脚光を集めるアルベール・カミュの「ペスト」は人間が遭遇する様々な不合理とそれに立ち向かう人々を描き、不合理文学の傑作と言われる。そのペストにはこんな台詞が出てくる。
「僕はこの町や今度の疫病に出くわすずっと前から、すでにペストに苦しめられていたんだ。(中略)世間には、そういうことを知らない連中もあれば、そういう状態の中で心地よく感じている連中もあるし、また、そういうことを知って、できれば、そこから抜け出したいと思っているものもある。」
新型コロナウイルスという不合理のもとで困っている人や目につきにくい“ケアを必要としている人”に目を向けることができるのか、私たちの振る舞いが問われているように思う。
(朴)