アキレスと亀
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先日、友人とテニス中にアキレス腱を切って左足のギブス固定になった。じっと座っている時間が長いので、アキレス腱つながりで少し考えてみた。
古代からの議論の的になってきた命題をどのように考えるか
ゼノンのアキレスと亀のパラドックスをご存じだろうか。
“「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである」という議論である。
あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らかなので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。
アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。”(Wikipediaより)
俊足のアキレスでも歩みを止めない亀には決して追いつけない。
数学的な解釈は難しくなるので割愛するが、古代から議論の的になってきた命題である。この時、どうしても亀の立場で考えてしまう。
必死で歩いてもいつかアキレスに追い越される、その焦燥はいかばかりだろうか。
人それぞれの戦いがある
映画『アキレスと亀』(北野武監督)も秀逸だ。
幼少期に絵画の才能を認めらてた真知寿(マチス)は、その後の両親の自殺や家の没落などの不運にもめげず、才能を認める妻とともに前衛芸術をめざす。だが、世間にはまったく認められない。貧困のうちに娘が死んでも、その歩みを止めようとしない、ある意味で狂信的でもあるが、芸術は彼の生きる根拠そのものなのでやめるわけにはいかない。歩みを止めなければいつかアキレスにも勝てる、それが彼の信念だった。
北野武の真骨調が表現された哀しい色合いの映画だ。大人の真知寿を北野自身が演じているが、アウトレイジでもみせた気違いじみた執着の演技が、ここでも際立っている。この作品をみていると、才能と努力とは何かを考えさせられる。亀のように歩みを止めなければ、本当にアキレスに勝てるのだろうか。
この寓話は、日本の昔話の『うさぎとかめ』を思い出させる。圧倒的な走力の差があっても、ゴール前まで一気に突っ走って一休みを決め込んだうさぎと、休むことなく歩み続けたかめと、どちらが先にゴールしたかはすでにご存じであろう。しかし、現実の世界では、努力すれば何事でも為せるという言い方は、なかなか通用しない。やはり持って生まれた才能は如何ともしがたい。
努力し続ければ、みんながイチローになれるわけではない。マンガ『ピンポン』(松本大洋)でも、同じテーマが語られる。アクマがスマイルに他流試合を挑んで惨敗したシーンで、「なんでオレじゃないんだ、なんでオマエなんだ!」と叫ぶ。スマイルが「それはアクマに卓球の才能がないからだよ、単純にそれだけの事だよ、大声で騒ぐ事じゃない」と静かに諭す場面だ。きついシーンだけど、心にひびくものがある。
成功した人が、成功した理由を聞かれて「決してあきらめずに、やり続けたことですかね」と答えるシーンをよくみかけるが、何だか結果論を説明してるだけのような気がする。
アキレスに追われる亀はどんな気持ちで歩いているのだろうか。はるか先を走るウサギを遠目に見て、カメは何を思うのだろうか。多くの人間は、いずれ才能がないことに気づき、その分野から去る。想いを絶つことで、新たな人生を生きることになる。そういう人生も捨てたもんじゃない。
『ピンポン』で、卓球を捨てたアクマが、スマイルに敗けてやけになりラケットを燃やしたペコ(主人公)に語る。「続けろ卓球。血ヘド吐くまで走り込め。血便出すまで素振りしろ。今よかちったァ楽になんよ…ヒーロー」。ペコの才能を誰よりも知るアクマは、才能を枯らそうとするペコを黙ってみていられないのだ。凡人には凡人の戦い方があるんだと、グッとくるシーンだ。
不思議な衝動
また、『日本の難点』(宮台真司)に、感染的模倣(ミメーシス)という言葉が出てくる。
“本当にすごいヤツは例外なく利他的です。……エゴイスティックな奴とは「こうすれば得になるとか損になる」とか「手段」の合理性を考える類の浅ましい輩ですから、どう考えてもこういう輩は「感染的模倣」の対象にはなりません。「感染的模倣」の対象になる人間とは、端的な「衝動」に突き動かされている人間です。……「感染的模倣」をもたらすのは「ありそうもない衝動」「不思議な動機づけ」に突き動かされた人間だけです”。
なるほど、これもよくわかる話だ。魅力ある人間、そのようになりたいという人間は、「不思議な衝動」に突き動かされている人間だ。極地探検家のシャクルトン、博物学者の南方熊楠、物理学者の寺田寅彦、私が魅かれる人たちは、それぞれが不思議な衝動に突き動かされた人たちだ。誰のためでもなく、自らの遥かかなたの衝動に殉じた人たちだ。今は亡き人でも、彼らの著作からつよい「あこがれ」を抱いてしまうような人たち。彼らは、アキレスの力を持ちながらも、それでも高い目標に向かって亀の如くに挑んだ人であった。
そう考えると、アキレスと亀の寓話は別の色彩を帯びてくる。どこまで走ってもアキレスは決して亀に追いつくことができない。そういうアキレスは不幸だろうか。決して追いつくことのできない目標に向かって全力で駆けることは、この上なく「幸せ」なことなのではないだろうか。
ギブス固定でいろいろ不自由な生活のなかで、アキレスと亀を思うと、どうしても亀の気持ちを考えてしまう凡人の私なのであった。そして、感染的模倣の対象にはなれなくても、はるか彼方の『坂の上の雲』をみつめ続ける人間でありたいと思うのである。
Author: 谷口 晋一
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