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3110月 2021

他人に頼れないと思い込む文化

鳥取大学地域医療学講座発信のブログです。
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糖尿病や肥満など、いわゆる生活習慣病をみる場面が多いのだけれど、患者さんの話を聞いていると、「そりゃ仕方ないわな」と感じることがよくある。成人病でなく生活習慣病という言葉が、生活習慣が原因で起こる病気というイメージにつながる。もちろん、食生活や運動量はカロリーバランスに直結するので、生活自体を分析することは必要だ。そもそも、糖尿病や肥満は、遺伝背景と環境要因の両方が影響している。遺伝子は操作できないので、生活環境にアプローチする。でも、次のような患者をみたら、みなさんならどうするだろう。ある日、59歳の男性が大学の総合診療外来に来られた。その人は、不眠や倦怠感を訴え、病歴からは糖尿病・高血圧・脂質異常の治療中断もあり、薬で治療すべき段階と思われた。ところが、話を聞いているうちに、理不尽な管理責任や深夜までの残業で眠れない、仕事でのストレスが尋常でないということだ。

さて、このようなケースで医師はどうすればよいのだろうか。検査をして薬を出すことはできる。薬は大きな効果があるだろうが、いくら薬を飲んでも職場の環境は変わらない。もちろん、これは産業医の仕事ともいえるが、糖尿病治療を行う私の立場でできることは何だろうか。思うに、「患者の話を聞くこと」「医学的課題をきちんと伝えること」「折り合いの付く治療法、介入案を協議すること」など、である。ただ、多数の患者に対応しないといけないと、ついつい、薬の効果や目先の先延ばし策に頼りがちになる。こういう時、「病気の自己責任」という声が、頭をよぎる。その病気、その環境、その生活、それを選び取ったのは、私でなく患者自身である。だから、その課題にどう向き合うのかは、患者の姿勢次第である。こういう思考パターンをとるのは、こちらの責任回避、もっといえば私が少し気が楽になるからでもある。でも、その思考は本当に患者のためになっているのだろうか。

人は、本当に疲れたとき、存在価値を認められないとき、悲しみに打ちのめされた時、人生に投げやりになったときに、「さあ、糖尿病という病気に取り組もう」という気持ちになるだろうか。むしろ、医師の指導に反発心を抱くのではないだろうか。診断、治療、予後を説明し、このままでは危険ですよと伝える。その言葉は理解できたとしても、やはり本腰になって治療に取り組めない。それは、患者その人のなかで、より優先すべき課題があるからではないだろうか。「まず、私の話を聞いてほしい、私の悩みを静かに受け止めてほしい」、そこからはじめないと、固まった心は開かないのではないかと感じる。もちろん、患者のコンテクストに注目し、病いを生物心理社会モデルから眺めて、さまざまな職種の角度からチームアプローチするのは重要である。健康の社会決定因子(SDH)への対処も、その延長線上にあるだろう。それでも、私にはなんだか腑に落ちないモヤモヤ感が残るのだ。

 

個人の自由と責任とは?

 生活習慣病という言葉が罪作りなのは、「生活習慣=あなたが選んだ生活=それによる病い」というイメージがつきまとうからだ。でも、その生活は、その習慣は、本当に患者が選び取ったものだろうか。そして、ここに現代という時代の文化特性が現れている。

「選択肢はたくさんある。選ぶのは自由だ、だが、いったん選んだらその結果の責任はすべてあなたにあるのだ」という論理である。これを自己責任論という。私自身もこの思考パターンに陥りがちで、責任をとるので意思決定せねば、と考えがちである。しかし、何かを決めるのも、判断のひとつにすぎない。決めない、選ばない、待つ、というのも判断だろう。

ではなぜ、「決めなければ」というプレッシャーを強く感じるのだろうか。それはたぶん、個人とは何かという概念に深く結びついている。個人は他者から独立で自由に意思決定できる、そのかわり、全責任を負うべきだ、という無意識の前提があるのではないか。個人をこのように規定すると、自由であるためには「他人に頼ってはいけない」という思考につながる。だが、そもそも本当に自由な選択肢はあるのか、選んだ責任は個人一人が負わねばならないのか。予想外のトラブルや想像以上の負荷がかかった場合、選んだ選択を振り出しに戻すことはできないのか。いろいろな疑問がわいてくる。

以前読んだ本で、「あなたの前に100の扉があり、99は地獄へ、1つだけ天国へと通じている、選ぶのは自由だ、さあどうぞご自由にという設定で、主人公は結局どの扉も選べなかった」という逸話があった。「自由に選べる、でも選んだ責任は負うべし」という設定は、判断材料が乏しく、先行きが不透明であれば、選ぶこと(選ばされること)は一種の暴力に似ている。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」といい、カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)では、イワンが弟のアレクセイに大審問官について語る場面がある。大審問官はいう、「神は人間に自由を与えたが、人間はじつは命令してほしいのだ、奴隷になりたがっているのだ」。人間の本質を鋭く突いた言葉ではないか。「個人と自由」という言葉の裏の意味を、よくよく考えてみる必要があろう。自由と責任について、正直いって私自身もまだよくわからない。ただ、「中動態の世界 意志と責任の考古学」(國分功一郎)が手がかりになるかも、とひそかに期待している。

 

 

安易に自己責任論に逃げるのではなく、考え続ける

 私が外来で出会う人たちは、その多くが「自ら喜んで病気になった人」ではない。「選び取った結果としての病気」かもしれないが、そんなことは、最初から予想できてたわけじゃない。自己責任という発想でその人をせめても、良い結果にはつながらないことが多い。患者さんのおかれた状況は千差万別である。安易に自己責任論に逃げこむのではなく、何が原因かという思考と、今できることは何かという思考、その両方が必要な気がする。人間とは不思議なもので、弱いかと思えば、思った以上に打たれ強かったりする。そして、時間がたてば状況が変化して、あれいつの間にやら良くなった、ということも起こりうる。患者と共にあること、決めることに囚われず待ってみる、視野を広く持つ、そして「選択する責任とは何か」を考え続けることが大切かなと思うのである。

Author:谷口 晋一


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