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264月 2021

実家の椅子

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実家の椅子が壊れてしまった。もう買ってからずいぶん時間が経つ、木製で座り心地のよいものだったが、座面が割れたり、骨組みの接着部分がはずれたり、素人には簡単に修理できそうにない。母が長年使っていたもので、新しい椅子に買い替えるより、修理して使えるならそのようにしたいという。市内の家具屋を調べて、壊れた椅子を持っていった。「これはずいぶんひどい、でも椅子を作ったメーカーに送れば大丈夫」といわれ、ひと安心。だが、その修理費用を聞いてびっくり仰天、購入した時の7割以上のコストがかかるという。返事をしぶっていると、「高いようですが、見た目でなく、思い出を買うのですよ」といわれ、考え込んでしまった。座るという目的だけなら、量販店の安い椅子で十分だ。でも、長い間使い込んできた「私の椅子」という思い出はどうなのか。値段のこともあり、いったんは椅子をもって実家にひきあげた。母に事情を説明すると、「そうか、そんなにお金がかかるならこのままでいい」と言われ、いっそう悩むことになった。

こういう問題は、ほかにもたくさんある。実家の屋根が壊れ雨漏りがする、庭の木が倒れた、白壁が落ちた、外塀が壊れた。最初の頃は、いちいち修理を頼んでいたが、お金もかかるし本当にきりがないのだ。そして、自分たちが将来的に実家で暮らすことはなさそうだと思うと、古い実家の修理には、よりいっそう気持ちが萎えてしまう。

 

時が作る人間らしい感情

人間というのは、長年付き合ってきた物品や家屋に愛着を抱くものだ。「私の〇〇」という気持ちは、共感できると思う。これは、ものだけでなく、家族や仕事にも拡張される。長い間、苦労しつつも付き合ってきた相手には、いろいろな思い出があって断ち切りがたい。それは、きわめて人間らしい感情だ。仕事についても、苦労して作り上げたものを揶揄されると腹がたつのも、自分の子供を馬鹿にされたような気持ちを感じるからだろう。思い出というのは、きわめて個人的なもので、暮らした場や体験を共有していない人間には理解しにくい。見た目におんぼろの椅子、他人なら「さっと捨てて手ごろな椅子に買い替えればええがな」という。それでも、思い出にこだわるというのが、人間というものだ。そういう思いは大切にしたいけれど、やはりお金の問題からも逃げられない。じつに悩ましいことである。

 

 

苦労して書き留めた実験ノートを処分する中で考えること

そういえば、30年ほど前、私が大学で基礎研究に勤しんでいたころ、2年半ほどアメリカに留学する機会があった。アメリカでは細胞培養や遺伝子発現の研究に没頭した。当時の分厚い実験ノートは数十冊にも達したが、論文として発表できたのは、ほんの一部だけだった。でも、ある意味で、そのノートは自分の試行錯誤と格闘の歴史のようなもので思い入れもひとしお、長い間、物置にしまい込んだままだった。20数年後、スペースが足りなくなり、家人から「留学時代の段ボールを処分して!」といわれた。そのときは、「留学中に苦労して書き溜めた実験ノートを簡単に捨てられるか」という思いと、「いつまでも思い出に浸っていても仕方ない。いまこのときと、これからが大事だ」という思いの、2つの気持ちに揺れた。

結局、実験ノートは処分することに決めた。天気の良い日をみはからい、家人といっしょに玄関の軒先に実験ノートをならべて、金具のついたルーズリーフと紙ノートの部分を仕分けしていった。その作業を日が暮れるまで続けた。夕闇の近づくなか、若い頃書いた鉛筆の几帳面な文字をながめて、一日一日の研究の記録が乱雑に地べたに積み重ねられていく風景を見ながら、なんとも寂しくやるせない気持ちになったのを思い出す。断捨離がよく話題になるけれど、思い出を捨てる気分というのは、やったものでないとわからないのかもしれない。それでも、ノートを処分してから何年も経ってみると、結局は捨てて良かったんだ、という気持ちもある。もしかすると、ものを捨てられない人というのは、「過去に生き過ぎている人」なのかもしれない、と考えたりする。

 さてさて、実家の椅子の修理をどうしたものか。日曜大工の趣味はないけど、自分で応急修理に挑戦してみるかな。不器用なので、まず椅子の構造から勉強してみようか。いやいや、とりあえず近所のジュンテンドーで固定用の金具や接着剤を物色してみるか。見た目も大事だけど、安全性も考えないと。古い椅子ひとつでも、なかなかに思い悩むことは多いのである。

 

Author: 谷口 晋一


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