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2511月 2024

些細なことだけどモヤモヤした出来事

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 私事ですが、夏に娘が手術のため入院しました。同部屋に1歳前後と思われる赤ちゃんと母親が入院していましたが、お母さんは途中で帰られたようです。その後、赤ちゃんがぐずって泣いていて、同部屋の他の人が「こんな赤ちゃんを置いて帰るなんて信じられない、考えられないわぁ」と帰られたお母さんを批判するようなことを、看護師さんに話しておられたのが、カーテン越しに聞こえてきました。もちろん黙って聞いていましたが、他人事とはいえ何だかモヤモヤしている自分がいました。何か理由があるかもしれないのに……、私には一方的に母親を追い詰める言葉のように聞こえてしまったのです。理由がなくても毎日毎日24時間病室に付きっきりは体力的精神的に参ってしまいます。自分自身も体調が悪くても誰も頼る人がいないのかもしれません。時間が経ってから改めて考えると、その批判的なことを言っておられた方も悪気があったわけではないのだろう、とは思いますが、人の心を救うのは正論より優しさだなぁ……と思った出来事でした。と同時にそういった言葉を受け流せず苛立ちを覚えた自分自身の心境もまた余裕がなかったのだなぁと、あとから気付きました。

また、とある習い事に行っていた時に、主催者の方が「いじめはいじめられる方に原因がある」というお話をされていて、いじめられる人は自分がそれを(いじめを受け入れる側)を選んでいるからだ、というようなことを仰っていました。その場にいた他の人も共感されていたのですが、私は「いじめはいじめる方が100%悪い」と思っているので、その話には全く共感など出来ずモヤモヤして居心地が悪く、そういう考え方の人もいるんだ……と悲しくなりました。その人自身は「私は楽しくワクワク生きていきたいからそういう生き方を選んでいる」と。要は自分の人生は、自分に正直に、自分で決めて、自分で作るんだ(自己責任)、ということが言いたかったのかもしれません。ですが「いじめはいじめられる方に原因がある」という言葉のチョイスは、私にとっては絶対受け入れられない言葉でした。

これらの出来事で、他人の些細な言葉にモヤモヤした私は、「自分は何に引っかかっているんだろう?」と考えつつ、自分が根底で何にモヤモヤしたのか気付けないまま、しばしの時が流れました。そうしているうちに、ある本に出会い、自分のモヤモヤポイントに気付いたのです。

私のモヤモヤポイント……それは強い「自己責任論」を感じる時でした。

 

生きることは頼ること

 自己責任とは、自分の行動が引き起こしたことによって生まれる結果は、すべて自分の責任であるという論理ですが、イコール「他人に迷惑をかけてはいけない」という価値観とも通じています。人は生まれたときには全く無力な存在であり、高齢になればできないことも増えていき、人生の途上では病気や障害など様々な困難によって人の助けなしには生きていけない場面もあるわけで、介護や育児も1人で抱えると大変です。そうだとすると、人は誰の助けも借りず、自力だけで生きていけるような存在などではなく、他者との関係の中で、支え・支えられつつ生きていくのが本来の姿ではないでしょうか。そう考えると、「自己責任=他人に迷惑をかけてはいけない」という考え方は、窮屈で、孤立を生み、ギスギスした冷淡な人間関係のような気がします。むしろ、迷惑をかけたり、かけられたりするのが自然で、「お互い様」という気持ちで接する方が、誰にとっても生きやすい社会になるのではないでしょうか。一人では果たすことができない責任を抱えたとき、自己責任論では、責任を引き受けた(引き受けざるを得なかった)人を壊してしまうかもしれません。

映画『あんのこと』の中で、幼いころから母親に虐待され、思春期には売春を強いられやがて覚醒剤に手を染めてしまった少女あんが、更生のため生活保護を申請しようと役所に相談しに行ったところ「中学にも行ってないのは自己責任ですよね」と拒否されるシーンがあったのですが、はたしてあんが学校に行けなくなったのは自己責任でしょうか?小学校4年で不登校となり中学や高校にも行けなかったあんは読み書きや計算もままならず社会で生きていくための教育をうけていないので就職も難しいのです。私はこの映画を見終わった時、同じ時代を生きる中で、こんな劣悪な環境で生きなければならなかった少女がいて、社会保障などの枠からも漏れ、頼る人もおらず、救いが無い状況だったことが、悲しくて悔しくて何とも言えない苦々しい気持ちになりました。

さて、前述で私が自分のもやもやポイントに気付いた本とは、「生きることは頼ること」(著者:戸谷洋志)という本です。その中で著者は、哲学者の思想や事例を交えながら、「弱い責任」という責任概論について論じています。本書では、私がモヤモヤしていて言語化できないことが、明確に書いてあり、すっきりした気持ちになりました。グサッときた箇所はたくさんありすぎるのですが、ほんの一部を紹介します。

◆私たちには、責任を果たすために、他者を頼らなければならないときがある。そしてそれは責任から逃れることではない。仕事・家事・育児を抱え込み、壊れそうになりながら日々を生き抜いている人は、その責任を果たすために他者の手を借りるべきなのだ。それは恥ずかしいことではない。責任の主体として、誇り高く、胸を張って生きるべきである。そうした主張を可能にする責任概論が、「弱い責任」に他ならない。おそらくそれは、私たちがこの社会で自分らしく生きていくために、必要なアイデアなのである。

◆出生と死が生きるものすべてにもたらされる限り、誰かに依存しなければならない時もあり、それを否定するすることはもはや人間の存在そのものを否定することを意味するのではないか。

◆弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」主体が、連帯しながら、他者の傷つきやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立する。

私は、「他人に迷惑をかけてもいい、でも自分も他人の迷惑を受け入れる」という方の生き方の方を選びたいし、子どもにもそう教えたいです。(※ここでの迷惑とは悪事や嫌がらせのようなものとは違い、助け助けられることを意味しています)

引用:生きることは頼ること 著者/戸谷洋志

Author:錦織 絹子


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