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317月 2023

最近よく聴いている曲

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最近、YouTubeでよく流す曲があります。SEKAI NO OWARIのHabitという曲です。

君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか
この世の中2種類の人間がいるとか言う君たちが標的
持っているヤツとモテないヤツとか
ちゃんとやるヤツとヤッてないヤツとか(SEKAI NO OWARI Habitより)

Habitという曲の冒頭は、上記したような歌詞です。2023年に入ってから友達に教えてもらって、それからよく聴くようになりました。「分類したがる」というところは、何度聴いても耳につきます。ぐさっと心にきたり、それって当然でしょ的なことも感じます。その時の自分の気持ちや天候なんかで感じることが変わっていることに最近気がつきました。

 

医療の中での「分類」 

なんでぐさっとくるんでしょうか。ぐちゃぐちゃ考えてみました。人間、いろいろな枠組みを作って分類して比較することで、物事が見えやすくなることを経験することが多々あります。医師も、例えば「診断」という枠組みで患者さんを捉えて、そのことにより判断を素早くするトレーニングを受け続けています。医学の研究だと「○○病に罹っている人で、ある薬を使った人たちとある薬を使ったことがない人たちを比べて、薬を使った人たちの方が良くなる人が多かった。」みたいな研究はよくみられます。ここでは、「薬を使った人」と「薬を使ってない人」を分類しています。分類することで、ある薬の効果をわかりやすく比較できます。わかりやすく比較することで、「○○病の人にこの薬使った方がいいのかなあ?」という問いに素早く素早く答えることができるようになります。ただ、この研究を成り立たせるためには、まだ分類が存在します。研究対象にしている人以外にも目を向けてみると、「○○病に罹っている人」と「○○病に罹ってない人」で分類しています(研究の対象には「○○病に罹っていない人」は入っていません)。また研究対象にしている人を細かく分類してみると、ある薬を使った人たちのなかで「○○病が良くなった人」と「○○病が良くならなかった人」、ある薬を使ってない人たちのなかでも「○○病が良くなった人」と「○○病が良くならなかった人」となります。

現代人は、このような分類して比較することで「わかりやすい」状態することに慣れているため、Habitで言われているようなことが起こりやすくなっているのかもしれません。筆者は今の時代しか生きたことがないので、以前のこととは比較することがなかなかできませんが……

 

 

分類して比較することによって得られることと、失うこととは

 ただ、「分類して比較すること」が本当にわかりやすいのかという点には、最近悩んでいます。例に挙げたような分類して比較する研究では、「○○病で、ある薬を使った人たちとある薬を使ったことがない人たちを比較して、薬を使った人たちの方が良くなる人が多くなるのか、少なくなるのか。」という問いが元々あって、研究が進みます。これらの研究の集合体が「○○病のガイドライン」になり、医師の○○病の患者さんに対する医療的アクションの指針になります。ただ、このような問いがあることで「○○病」に焦点が当たりますが、「○○病」以外には焦点を当てることができなくなります。あるガイドラインを見て一生懸命情報収集しているときに、このガイドライン以外に焦点を当てることができなくなっていることに自覚的にはなることができない自分もいます(そんな自分にはガイドラインを見終わってから気がつきます)。

分類することで、分類しようとする集団には焦点は当たりますが、その外側に焦点が当たらないことに自覚的になるためにどうしたらいいのでしょうか。同時には人間一つのことしかできないので、分類しようとする集団の外側に焦点を当てようとすること自体非常に難しいのかもしれません。

分類する目的は、比較してわかりやすくすることではないかとは思います。それでは、比較することで、何が得られて、何を失うのでしょうか。得ることは、目の前で起こっていることを認識するための「わかりやすさ」だと思います。失うことは、「分類しようとする集団」の外側をみる視点、言い換えると「分類しようとする集団」の外側にある今見えていないものとのつながり、になるような気がしています。

 

 

現時点での「比較三原則(案)」

 今朝同僚の先生と、「比較する事ってなにかなあ……」と話ながら悩んでいたんですが、その時に「比較三原則を作ってみたらどうですかー。」と言われました。「あーっそれって面白いなあ。」と思ったので、比較三原則を考えてみました。比較三原則を作る目的は、「健全な比較をすることができる」としました。ただ、この目的に言及することで分類や比較を生むことになるため、動的なものと捉えたいとは思っています。そのため、明日このブログを書いたら、また違った目的・違った三原則になっているかもしれないことを承知していただきたいです。

今まで書いてきた悩みも踏まえつつ、比較三原則(案)を以下のように言葉にしてみました。

①何かと何かを比較するときには、「なぜ比較するのか?」を意識しつつ比較する。
②比較する対象の「外側」があるが、そこには焦点が当てることができないことに自覚的になる。
③比較して生まれた「わかりやすさ」を、他人に押し付けない。

このブログを書きながら、上記の三つが比較三原則として頭に浮かんできました。先ほどの同僚の先生にみせたら、「あくまで比較できるのは全体の一部であることを前提にしつつ比較しましょうね、ということが伝わるので、とてもいいと思います。」とお墨付きをもらいました。まだ、筆者の中でもこの三原則以外にもあるだろうなあと思いつつ、一旦これでしばらく「比較」を実行していきたいと思います。これらの三原則を意識することで何が起こるのか、健全な分類・健全な比較が生まれるのか、観察してみます。この三原則を作る事による分類が生まれ、「比較」の外側に焦点が当たっていないことに自覚的であろうという思いを胸に一旦このブログを書き進めるのをやめてみようと思います。Habitは、明日も聴き続けたいです。

Author:井上 和興


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