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148月 2020

新型コロナウイルスの確率の話

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新型コロナウイルス感染症が世界中で猛威を振るう中、様々な医学的な言葉が巷に流布したように思う。

その一つが「感染リスク」だ。

生きていると様々なリスクにさらされるものだ。今日通勤中に車に轢かれるかもしれないし、明日新型コロナウイルスに罹患するかもしれない。病気にはなりたくないし事故に遭いたくないから出来るだけリスクを低くしようとはするけれど、リスクを完全に排除して生きることは出来ない。いや、そもそも生きているということそれ自体がリスクなのかもしれない。

そこまで考えて、リスクとはなんなのだろうと感じた。ある人にとってはリスクが高いと感じることも他の人にとってはリスクが低いこともある。時に同じテーマで話し合っていても、一方では感染して会社にいけなくなるリスクかもしれないが、別の一方では世間を騒がすニュースになるリスクのことを話しているかもしれないし、死亡リスクについて話しているかもしれない。

 

コロナ騒動から考える現代医療の変化とは

人類が長い歴史の中でもたらした最大の進歩の一つは、未来予測性の獲得だろう。どういった行動にどのくらいのリスクがあるのか推定することが出来るようになった。例えば、癌になれば5年後に何%の確率で死亡するといった具合だ。

人類は未来に投資することが出来るようになった。大人になったらいい会社に勤めたいから今勉強を頑張る、来年の夏には旅行に行きたいから貯金をする、老後のことを考えてウォーキングをする。今日の天気から自分の命まで、100%の予測ができないのは原始時代から変わりないけれど、予測出来ないものへの不安感は時代を追うごとに強くなっている。

まだ終わっちゃいないが振り返ってみると、今回の「コロナ騒動」は、医者が「〜だと思います」しか言えないことが大きな問題なのではないかと思う。

「これは肺炎球菌による肺炎です。抗菌薬を使えば治ります」とか、「大腸癌のステージ〇です。手術を行うと5年、生存率が……」とか、新型コロナウイルスに関しては誰も分からないのだ。来年も流行しているかもしれないし、1万人以上死者が出るかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。つまり、誰も答えを知らないのだ。

みんなが1億総評論家化しても、必ずどこかに正解をくれる“専門家”がいたはずなのに、どうも専門家も「〜だと思います」みたいな個人的意見しか述べない。

しかし、よく考えてみれば、医療が患者に明確な態度を取れなくなったのは今に始まったことではない。医療者にとって、患者にうかつに「大丈夫ですよ」なんて言える時代はもうとっくに終わっている。

医者だって、医者になりたいと思ったぐらいだから患者さんに「大丈夫ですよ」って言ってあげたい。でも、「大丈夫ですよ」という言葉は現代語でしばしば「ゼロリスク」と翻訳される。「頭が痛いけど脳出血の確率は〇〇万人に1人程度で……」とか胸が苦しいけど「心臓の病気である確率は……だけど、〇〇%の確率で大丈夫」と言わないと、「大丈夫って言ったじゃないか!」で“責任”をとらなければいけなくなる。これは本来“安心”を意味する「大丈夫ですよ」という言葉を“安全”と誤変換したことによるトラブルだ。

実は今も多くの患者さんは“安全”ではなく、“安心”を欲している。しかし、現代医療はどんどん“安心”ではなく“安全”を提供するようになってしまっている。

 

様々なリスクの中で努力や人知を駆使した予測を裏切られたら

絶対の“安全”を獲得するには、徹底的に、とにかく徹底的にやるしかない。

絶対に失恋したくなければ、恋をしてはいけない。いや、恋に落ちるリスクを考えると、人と出会うのも長い目で見れば失恋リスクを高める。しかし失恋しないために山籠りをして誰にも会わない生活を送れば、素敵な恋愛ライフが送れるかというと、そうではない。我々は失恋しないために恋愛しているわけではない。生きているということはそれだけで様々なリスクにさらされている。

もし仮に人生で起こる全てのものが予測可能、全てのリスクが回避可能であったなら、そんな世界程つまらないものはない。スポーツが面白いのは必然性と偶然性が絶妙にバランスをとって世界を構成しているからだ。人生もそうかもしれない。

努力が必ず実るとは言わない、だけどみんな努力する。必然性を信じながら偶然性に賭ける。

私が医学生の頃、アフリカの認定NPO法人ロシナンテスの活動に参加させてもらいスーダンを訪れた際、よく「インシャーアッラー」という言葉を聞いた。

遅刻しても、約束を守らなくてもインシャーアッラー。
イスラム教において「إن شاء الله (アッラーの神の思し召しのままに)」といった意味らしく、本来的な用語の使用方法ではないのかもしれないけれど、遅刻したのも神思し召しだから仕方ないだろと言わんばかりのその言葉に、当時場当たり的な適当さを感じたものだ。

しかし、今思うとなかなか感慨深い言葉だと思う。努力や人知を駆使した予測を裏切られたとき、偶然との出会いを神に託す。これは高度な人類の叡智だと感じる。

 

偶然性を抱えて生きる

偶然性を引き受けて生きていくこと、これが生きていくことではないかと思う。こんなことぶつぶつ呟いても新型コロナウイルスが消えてくれるわけでもない。

でも今回の新型コロナウイルス騒動は蓋然性に支配された現代社会の歪みを明らかにし、偶然性を抱えて生きる我々の覚悟を問うているような気さえしてくる。

Author: 朴 大昊


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